会社のカルチャーや体質、価値観や文化って大事だという話が最近フォーカスされている気がする。
もしかしたら最近フォーカスされているのではなく、常に定期的にフォーカスされ続けてきたのかもしれない。
組織というのは人の集合体に過ぎないわけで、そう考えると組織における究極的な差別化というのは、それらのような定性的な要素に集約されるのではないかと思いながら、12年間も試行錯誤してきたわけだが。。。
風通しが良かったり、行動指針が浸透していたり、経営視点が高い社員が集まっていたり、多くの経営者が自分達の会社に対してポジティブにプレゼンテーションしている姿を良く目にする。もちろん対外的なアピールもあるので本当にそう思っているわけではないケースも多々あるだろうが、中には少ないにせよ、本当にそう信じているケースもあるだろう。
私は完全に後者であり、正直、本当にうちの社内はフラットで私にもほとんど気兼ねなくなんでも話してくれているし、経営視点も持ち、愛社精神も強いと考えている。
もちろん今でもそういう組織を目指しているし、限りなくそういう組織に近い状態にあるとは思っているが、やはり組織というのはほっておけば少しずつ平凡な状態に近づいていってしまうのかもしれないと最近考える。
もしくは私が想像している以上に経営者と従業員の間での溝があるということなのかもしれない。
もしそこに溝があるとするのであれば、それが露呈するのは従業員個々人の評価や損得に何らか大きく影響があるような状況下での判断を迫られた時なのかもしれない。
評価に関するわかりやすい例としては、自分が何らかのミスをして大事なクライアントを怒らせてしまった、というような場合、すぐに上司や上席の人間に適切に報告・相談するなど、会社にとってベストなアクションが取れるかどうか。多くの人はつい何とか自分だけで収めたい、などという気持ちが働くのではないだろうか。ミスとした時の対応こそが企業姿勢が最も問われる時であり、対応の仕方次第ではそのクライアントが更にファンになってくださるようなケースもある。ただし対応を間違えてしまうととんでもない事態に発展しないとも限らない。
こういうケースで全社員が経営陣や上司を尊敬・信頼し、風通しの良い組織風土で、顧客を大切にしているのであれば、迷わずに自分がお詫びするよりも上席の人間がお詫びする方が望ましいなどの判断ができるはずだが、そこに自分のマイナス評価やミスがバレることの後ろめたい感情が交じることによってミスジャッジしたり、報告・相談が遅れたりする。
こういう会社は得てしてカルチャーや価値観の徹底ができていない証拠なのだと思う。
自分が叱られること、自分の社内評価が下がることなどよりも、顧客・ユーザーの期待を超える対応をすることこそが絶対だと徹底されていれば、迷うことなどないはず。実際にはそれが非常に難しいのも事実なのだが。。。。
アトラエではミスはミスとして二度と起こさないよう徹底して理由を追求し、原因から解決・改善するのはもちろんだが、何より大事なのはそれでマイナスの評価はしないということ。一番大事なのはミスを起こした後の対応が、どうだったかということに尽きる。
では実際にミスが起きた時に全社員それが徹底できてるのだろうか。
正直自信をもってYESとは言い切れないのが本音でもある。
できていて欲しい、というのが正しい言い方かもしれない。
とある企業の経営陣と話をしていて面白い話を聞いた。
これは自分の損得が絡んだ話。
上場直前に創業オーナー社長が全社員に自分の保有株式を少しずつ譲渡したという。
全社員が株式を保有することでこの会社の成長や夢を、今まで以上に本気で経営者と同じように追いかけてくれるはずだと信じてとった行動だったらしい。結果はどうだったか。
上場直後の株価が高い時に半数近い社員がその株を売却して去っていったというから驚く。
もちろんその社員達にも労働の自由はある。しかし仁義を捨ててまで自らの利を取ろうとしてしまうのは人としてどうかと思う。
正直良い踏み絵だったのかもしれないし、ストックオプションにしておけばそういう事態は防げたのかもしれない。答えはない。
ただその会社ではその時に残り、一緒にそこからの谷間を踏ん張ってやり抜いた奴らが、現在でもとんでもなく活躍しているという。もちろん経済的にも残った人達の方が桁違いに得ているというから、何となくハッピーエンドな印象があるが、真実はそれほど簡単ではないだろうし、そうならないケースもあることを考えると悩ましいものである。
過去の会社で労使の溝を埋めきれた会社はほとんど存在しないかもしれない。
少なくとも私が知る限りは「海賊と呼ばれた男」という本の中に出てくる国岡鐡造、ただ一人くらいだが、理想は労使の溝がない組織だといまだに思うわけで、自分自身がそう思える限りはあくなき挑戦を続けるしかない。そう思う次第である。
もしかしたら最近フォーカスされているのではなく、常に定期的にフォーカスされ続けてきたのかもしれない。
組織というのは人の集合体に過ぎないわけで、そう考えると組織における究極的な差別化というのは、それらのような定性的な要素に集約されるのではないかと思いながら、12年間も試行錯誤してきたわけだが。。。
風通しが良かったり、行動指針が浸透していたり、経営視点が高い社員が集まっていたり、多くの経営者が自分達の会社に対してポジティブにプレゼンテーションしている姿を良く目にする。もちろん対外的なアピールもあるので本当にそう思っているわけではないケースも多々あるだろうが、中には少ないにせよ、本当にそう信じているケースもあるだろう。
私は完全に後者であり、正直、本当にうちの社内はフラットで私にもほとんど気兼ねなくなんでも話してくれているし、経営視点も持ち、愛社精神も強いと考えている。
もちろん今でもそういう組織を目指しているし、限りなくそういう組織に近い状態にあるとは思っているが、やはり組織というのはほっておけば少しずつ平凡な状態に近づいていってしまうのかもしれないと最近考える。
もしくは私が想像している以上に経営者と従業員の間での溝があるということなのかもしれない。
もしそこに溝があるとするのであれば、それが露呈するのは従業員個々人の評価や損得に何らか大きく影響があるような状況下での判断を迫られた時なのかもしれない。
評価に関するわかりやすい例としては、自分が何らかのミスをして大事なクライアントを怒らせてしまった、というような場合、すぐに上司や上席の人間に適切に報告・相談するなど、会社にとってベストなアクションが取れるかどうか。多くの人はつい何とか自分だけで収めたい、などという気持ちが働くのではないだろうか。ミスとした時の対応こそが企業姿勢が最も問われる時であり、対応の仕方次第ではそのクライアントが更にファンになってくださるようなケースもある。ただし対応を間違えてしまうととんでもない事態に発展しないとも限らない。
こういうケースで全社員が経営陣や上司を尊敬・信頼し、風通しの良い組織風土で、顧客を大切にしているのであれば、迷わずに自分がお詫びするよりも上席の人間がお詫びする方が望ましいなどの判断ができるはずだが、そこに自分のマイナス評価やミスがバレることの後ろめたい感情が交じることによってミスジャッジしたり、報告・相談が遅れたりする。
こういう会社は得てしてカルチャーや価値観の徹底ができていない証拠なのだと思う。
自分が叱られること、自分の社内評価が下がることなどよりも、顧客・ユーザーの期待を超える対応をすることこそが絶対だと徹底されていれば、迷うことなどないはず。実際にはそれが非常に難しいのも事実なのだが。。。。
アトラエではミスはミスとして二度と起こさないよう徹底して理由を追求し、原因から解決・改善するのはもちろんだが、何より大事なのはそれでマイナスの評価はしないということ。一番大事なのはミスを起こした後の対応が、どうだったかということに尽きる。
では実際にミスが起きた時に全社員それが徹底できてるのだろうか。
正直自信をもってYESとは言い切れないのが本音でもある。
できていて欲しい、というのが正しい言い方かもしれない。
とある企業の経営陣と話をしていて面白い話を聞いた。
これは自分の損得が絡んだ話。
上場直前に創業オーナー社長が全社員に自分の保有株式を少しずつ譲渡したという。
全社員が株式を保有することでこの会社の成長や夢を、今まで以上に本気で経営者と同じように追いかけてくれるはずだと信じてとった行動だったらしい。結果はどうだったか。
上場直後の株価が高い時に半数近い社員がその株を売却して去っていったというから驚く。
もちろんその社員達にも労働の自由はある。しかし仁義を捨ててまで自らの利を取ろうとしてしまうのは人としてどうかと思う。
正直良い踏み絵だったのかもしれないし、ストックオプションにしておけばそういう事態は防げたのかもしれない。答えはない。
ただその会社ではその時に残り、一緒にそこからの谷間を踏ん張ってやり抜いた奴らが、現在でもとんでもなく活躍しているという。もちろん経済的にも残った人達の方が桁違いに得ているというから、何となくハッピーエンドな印象があるが、真実はそれほど簡単ではないだろうし、そうならないケースもあることを考えると悩ましいものである。
過去の会社で労使の溝を埋めきれた会社はほとんど存在しないかもしれない。
少なくとも私が知る限りは「海賊と呼ばれた男」という本の中に出てくる国岡鐡造、ただ一人くらいだが、理想は労使の溝がない組織だといまだに思うわけで、自分自身がそう思える限りはあくなき挑戦を続けるしかない。そう思う次第である。